著作と文体

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

この本は「思索」「著作と文体」「読書について」の三編からなるが、今回は「著作と文体」の感想を書く。
鮮烈な「思索」に続く100ページであるが、ここから得られる内容は、それほど多くはなかった。
この文章における1文の多くは、「ドイツ人は」「ドイツ語は」「ドイツの著者は」という主語で始まる。つまり、ショーペンハウエルが生きた時代のドイツの話である。他国語とドイツ語とを比較して音節がどうこうという話にまで至るので、19世紀のドイツ文壇にもドイツ語にも全く詳しくない自分には、ディティールを理解できない。
おおざっぱに、かつ有り体に言ってしまえば、ドイツの知識階層に対する愚痴が書かれた文章なのだが、匿名記事や国語の乱れといった、現代の日本にも通じるテーマでの批判が多く見られる。こういう感覚は時代や場所を問わないんだな、という発見は得られた。


さて、これで三編全てを読み終えたので、ここからは本全体の感想を書く。
この本は「読書について」がテーマなどでは全くなく、「思索について」がテーマであろうと思った。
読書についてや著作についてや文体についての言及は、あくまで、思索を得るための方法論として、あるいは思索を放棄したあり方についての批判として、行われているように見える。
したがって、ショーペンハウエルが「本を読むより自分で考えろ」と書いているとは、私には読み取れない。
むしろ、「思索しろ」とだけ言っており、思索を放棄した典型的な例として、多読を思索とをはき違えた人を挙げているに過ぎない、と思えた。
この理解が私だけのものなのか、不安と興味があったので、他の方の書評を覗かせてもらった。すると、はてなダイアリーの中に、この点を喝破した日記がひとつだけあったので、リンクしておく。
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