論より詭弁 反論理的思考のすすめ

論より詭弁 反論理的思考のすすめ (光文社新書)

論より詭弁 反論理的思考のすすめ (光文社新書)

アイタタタ、な本。
さて、私はこの本に「詭弁の上手い使い方ガイド」を期待していた。
ところがこの本ではひたすら著名人の名を挙げ、「あれも詭弁」「これも詭弁」とあげつらうだけで、見えてくるのは作者の肥大化した自意識だけである。
これで感想を終えても良いのだが、もう少し意地悪く突っついてみよう。
まず、この本の出だしはこうである。

(前略)
私もまた、論理的思考に関する正統的な書物に学んだ後で私の本を読もうとする読者からは、定価の二倍から三倍の料金を頂きたい気がする。

いきなり作者の「僕はめんどくさい人間ですよ−」というカミングアウトである。
続いて彼は「論理的思考批判」と称して次のような例を挙げる。

罠に掛かって尻尾を切られたキツネが、周りのキツネに尻尾を切るよう勧めて回った。それを聞いた1匹のキツネが「もしそれがお前にとって都合の良いことでないのなら、我々に勧めはしなかったろうよ」と述べた。


※本に書かれていた内容を要約した

で、筆者に言わせればこの場合において「狐たちは、ただ、自分たちにとって本当に尻尾が必要かどうかだけを考えればいいのだ。――こんな馬鹿馬鹿しいことを教えるのが論理的思考である!」であるらしい。
よっぽどのバカでない限り筆者の主張のおかしさはわかると思うが、この時狐達はちゃんと内心まさに筆者が憎悪する論理的思考によって「自分たちにとって本当に尻尾が必要かどうかを考え」ている。論理的思考に従って尻尾が必要だと考えたからキツネは尻尾を切れと言うキツネをバカにしたのだ。
例えば、もし次のような場合だったらどうだろう?
「お金持ちになって不幸になったキツネが、みんなに金をばらまこうとした」
このとき、おそらく金をばらまかれる側のキツネは「もしそれがお前にとって都合の良いことでないのなら、我々に勧めはしなかったろうよ」などと余計なことは言わず、黙って金を受け取るだろう。ちゃんと論理的思考によって「自分たちにとって本当に金が必要かどうかを考え」ているからだ。
筆者は論理的思考を批判するための例で、まさに論理的思考の有効性を証明してしまっているのだ。ここで彼の知的射程距離の短さにガックリくる。
それ以降もひたすら権威のある人間を発言が「非論理的」として批判し、時には「私と違って○○は性格が悪い」などと衒ってみせるというだけの内容なので、かなりうんざりする。
こういうタイプの人間を見かけるとすぐに思い出すのが雁屋哲石原慎太郎である。
雁屋哲(東大教養学部卒)が「東大法学部は世界で最も悪人を生み出している学部だね!」と美味しんぼで山岡に言わせたり、石原慎太郎一橋大学卒)が東大の権威を否定するために「首都大学東京」を作った(そしてその教授陣にうんざりされ、結局偏差値を落とした)例などを見るとこみあげてくるものがある。
閑話休題。この本の著者である香西秀信というのは受験偏差値で言えば雁屋や石原に遙か遠く及ばない。ここまでくるとむしろいじましさに涙を流してもいいかもしれない。
さて、ここで彼の「属性」についてもう少し述べたとしても、彼自身がそれを肯定しているのだから失礼にはあたるまい。
彼は筑波大学第一学群人文学類卒業、となっている。「筑波大学立派じゃん」と思うかもしれないが、それは理系の話で、文系は大したことがない。具体的に言えば、現代の受験偏差値において筑波大学第一学群人文学類とは明治大学の主要な文系学部と同等くらいの偏差値である。「国立と私立の偏差値は一概に比べられないのでは?」と思うかもしれないが、残念、筑波大学第一学群人文学類は私学同様に推薦が存在する上に2教科しか試験を課さない。どう逆立ちしても早慶上智や中央法より上ということにはならない。もちろん筆者が筑波大学に受かった時期はもっと昔だが、当時としても大差はないであろう。
受験偏差値で明大レベルの教授……。
彼が明治大学程度の受験偏差値しか持っておらず、長年大学に居座っていたのに結局博士を取ることができず、琉球大学に飛ばされてまで頑張ってやっと手にした「教授」の地位。
きっと頭のいい人達をずっと羨んでいたんだろうなあ、と想像させるにあまりある経歴である。
まさに「大学にずっといた」彼が必死に学問の権威の名前を挙げて否定し、「教室ですごす時間が長すぎた人間の頭に芽生えた妄想は実社会では通用しない」などと嘯き、本の中の空想で自分が会社の上司になったつもりになって新入社員をバカにして見せる様はあわれを誘う。
もちろん「論理」に限界があって、実社会に通用しない場面があることは私もハナから承知している。しかし、著名人の言葉をほじくり返して批判して俺スゲエを繰り返す筆者の姿勢はあまりに……。
そういう負の感情を思う存分吐き出したのが本書というわけで、可哀想な人だと私は軽蔑すると共に、この人が書いた本はもう二度と買うまいと決意するのであった。