心に届く文章づくり

心に届く文章づくり (岩波ジュニア新書 (257))

心に届く文章づくり (岩波ジュニア新書 (257))

読んでて全然面白くない。
役にも立たない。
朝日新聞記者が」「岩波で」「子供向けに」書くという時点で権威主義的なんだろうなという予想は付くわけだが、それなら教養の煌めきや文章センスに期待しようかと思いきやそれすら感じられず、バカみたいなひどい本だった。金返せ。
例えば「擬声語・擬態語の使い方」については以下のように書いている(擬声語・擬態語についてはこれだけしか書いていない)。

私たちが暮らす日本は、四季に恵まれた温帯に属し、しかも北から南へ、弓なりになっていますから、北海道の人たちは寒帯に近い経験、沖縄の人たちは熱帯に近い体験もします。
私は新聞社の特派員として、寒い国へも暑い国へも行ったことがあります。そこで日本を思うと、暑い国では、冬の、あの、身の引き締まる寒さがなつかしく、寒い国では、夏の、あのふうふう言う暑さが恋しくなります。
実際、南のバンコクでは、「メリー・クリスマス」の季節だというのに、クリスマス・セールをしているデパートの前など、灼熱の太陽にアスファルト道路が焼かれて溶け、行政区分を示す白線がぐにゃぐにゃになっています。一方、北のアムステルダムでは、夏だと、午後十時、十一時になっても、窓から見える隣のビルには日が当たり、夜であることを忘れます。白夜です。
日本は、かつての氷河期でも、厚い氷に覆われる面積が少なくてすみ、おかげで、生き残った動物や植物の種類も豊富です。
こうした環境の中で、私たち日本人は、豊かな感性を育ててきました。それは、日本人の文章表現にも反映しています。その一つが、擬声語・擬態語の多さだ、と言われています。
赤ちゃんのオギャーオギャー、犬のワンワン、猫のニャーニャーといった泣き声や鳴き声、雷のゴロゴロ、雨のザアザアといった音をまねてつくったのが擬声語です。また、ニコニコ笑う、ブラブラ歩く、ゴソゴソ動くといった、ものごとの状態や様子をあらわすのが擬態語です。
私たちは、文章を書く時、この擬声語や擬態語を上手に使い、文章を生き生きさせています。とくに作家や詩人は独自の擬声語や擬態語を生み出すため、苦しんできました。
たとえば、ゲロゲロ鳴く蛙も、中原中也(一九〇七―三七)はコロコロといい、萩原朔太郎(一八八六―一九四二)は「ぎよ、ぎよ、ぎよ、ぎよ」と表現しています。
(P68-69)

ごらんの通り、内容が愚にも付かない。
文章が散漫としていて論理的でない(例えば、日本の四季に恵まれた環境が擬声語・擬態語の豊かさをはぐくんだと説明してる文章のなかに、唐突に『自分は特派員として他国へ〜』と自慢話を挟んで論理的に趣旨一貫してない)。
文法的におかしな文が見られる(『それは、日本人の文章表現にも反映しています』は『――反映されています』と書くべき)。
子供向けに曖昧な表現を使ってる割には「行政区分を示す白線」だの「中原中也」だのを説明抜きでポーンと出してきてる(後者はこの本を教材に使う国語教師が説明するならまだしも、前者なんて説明できる人がどれだけいるのやら。ちなみに前者はこの方の記事の中程に掲載されている写真のようなものを指します)。
なによりこの説明で擬声語・擬態語の使い方がまるで分からない